peep pea poop

知人への生きています報告 あるいは将来的な墓標

うまくいかないことへの嫌悪への対処を考える

ここいくつかのエントリを書いてきて思ったのだが、私は、うまくいかない、という感覚に脆弱すぎる。

そもそも人生などうまくいかないものなのだが、それを念頭に置いていても小さな生活の瑕疵に大げさにつまずいて痛がっている。

ほら今だって瑕疵という文字を変換するのに予想の5倍ほどかかり、ラップトップを殴りたくなっている。

もっと大きな有事に巻き込まれたら逆にいきいきする場合もあって、ただ退屈しているだけなんだろうか。なんなんだろう。

原因がわからないのでうまく対策が取れていないというところはある。

 

しかしまあなんとかしようと外部要因の活用を画策してはいる。

 

つれあいは私のことを強くて仕事ができる人間だとまなざしているところがあるので、彼の人の前ではそのような人格とふるまいを装うことがある程度できている気がする。

 

コロナ禍で暇しているときにMOOCで学んだことのひとつに「自己成就予言」という心理学用語があって、そこで出されていた例として、人は「あなたは〇〇だね」といわれるといかにも自分が〇〇であるかのように寄せていく習性がある、というものがあった。今パッと調べたら定義がなんだかずれている気がしたのでもしかしたら私の理解が違っているのかもしれないが。

 

まあなんにせよ、他人にまなざされるように振る舞ってしまうという癖は自分にも多分にあって、それはどうせ「お母さんに褒められたい」といった幼児の承認欲求にでもつながっているのだろう。

 

なんかそのあたりをうまく活かして自分がひとりである時の振る舞いも制御できないかと思っている。

不特定多数の人間に見える場所にアホみたいな文章を垂れ流しているのもその一環なのかもしれない。

いいように働けばいいのだけど。