旅記

生存報告あるいは将来的な墓標として

休暇

イスタンブールの、リノベーションの行き届かないホテルで一晩過ごして翌日は晴れ、散歩に出かける。とりあえずコーヒーを飲みたい。

カドゥキョイは壁一面のグラフィックなんかが多くて、メキシコを思い出す。

昔ながらのチャイハネ、朝ごはん屋、洒落たカフェが混在するこの地域で、ブックカフェ=Kitap Kafe と検索したらかなりたくさん出てくる。古本屋がカフェっぽいことをしていたり、カフェに本が置いてあったり、様々だ。 

 

私が入ったのは、本棚が一面にあるわかりやすいブックカフェで、心地いい音楽がかかっていた。

だぼだぼのスウェットを着たヒゲも髪ももじゃもじゃのお兄さんが1人でやっている。この商売っけとやる気のなさそうなカフェで適当読書を決め込む。

 

カプチーノが新鮮な中深煎りという感じで、とても美味しい。

カプチーノを飲みながら棚を漁り、オルハンパムクトルコ語本をめくってみたりするが、私の初心者レベルトルコ語で読書を楽しめるわけもなく、あえなく英語本の棚の前に撤退する。

 

最近本が全然読めず、もう体力的にも嗜好的にも変質してしまったのかと思っていた。自分はいまでも外に出て特にやりたいこともないと本を読むんだと分かって、嬉しく感じる。

しかし家で読めないのは何とかならないだろうか。気になる新刊や知らなかった分野の古典はどんどん増えるので、それに従って家には読んでいない本が増殖する一方だ。引っ越し先で、私も流行らないブックカフェをやろうかしら。しかし知らない人が来るのを拒めない場所を自ら作るのは向いていない気がするので難しい。何事にもまずコミュニケーション能力と体力である。

 

そういえば最近の「読めない」は単に体力と時間のなさが原因だけれど、イギリス留学時に目が滑って全然読めずしんどかった。今はそういうことはない。当時、というか20代はだいたいずっと軽度の鬱だったのかもしれない。最近、別に死にたくないもの。

不満と不安と自己嫌悪に浸ったまま一周回って、なんでもどうなっても愉快に感じるお気楽人間になってしまった。ここに達すると結構楽しい。

 

滞在したカフェにはNino Haratischviliというジョージア出身、ドイツ在住の作家のJujaという本の英語訳があって、これは面白かった(35ページくらいしか読めていないが)。書き味が痛烈で、金原ひとみ作品を好きである理由を思い出す。しかしそれとは違う独創的な悪口が目を引く。例えば訪問してきた叔母のことを「年取ってぼけたキリンみたい」と形容するような。

bad-assテイーンエイジャーの衝動を、私はもう忘れて、幸せなぬるま湯に浸かった三十路になってしまった。

 

翻訳者のプロフィールを読んでいて、ブリストル大学の現代言語学部なるものがあって、文学翻訳のサマースクールなるものもあることを知った。

楽しそうだな。私の社交力とやる気では絶対食っていけないが、仕事としていつか関わりたいことの一つ、文芸翻訳。

 

登録しようかと思ってWebサイトを見てみた。応募始まっているらしいが応募画面を見つけられない。

https://www.bristol.ac.uk/sml/translation-studies/bristol-translates/